wakisaka lab@Shizuoka Institute of Science and Technology

静岡理工科大学 建築学科 脇坂圭一研究室

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20201211 既往研究のレビュー 【建築防災街区ゼミ】

 

日本建築学

 こんにちは。

12月11日 (金)は台湾ゼミを行いました。

 今回は、

「台湾における市区改正計画によらない軒下歩道(亭仔脚)の街並み形成について」

                               (著者:西川博美)

「台湾老街の形成と震災復興の関係に関する考察」        (著者:西川博美)

 上記の2つの論文のレビューを行いました。

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20201211 台湾ゼミ

以下はレジュメになります。

担当者(鈴木結梨)

 

■「台湾における市区改正計画によらない軒下歩道(亭仔脚)の街並み形成について」

                               (著者:西川博美)

●始め
亭仔脚を基盤とする店屋が連続した歴史的な町並みの建設は、日本統治時代の建築制度
である1900 年に公布された「台湾家屋建築規則」によって軒下の歩道の設置が義務付けられ普及した。(『中国人の街づくり』p107~123)老街が観光資源にもなっている最大の要因は、その濃密ともいえる独特なファサードデザインにあるとも考えられる。
しかし、建築規則においても市区改正事業計画においてもファサードデザインの規定は
なかった。なぜこうした特徴のあるファサードデザインが波及していったのか。そのことを明らかにするために自主的に亭仔脚の町並みを形成していった地区に着目し、経緯を整理する。

 


●市区改正事業としての街並みの形成
亭仔脚の街並みの原点→台北市における市区改正工事
1913 年 大風水害の被害を契機に大掛かりな家屋改築計画が始められる
    個々の店屋建築のすべてを総督府が設計しており、その際に亭仔脚による町
    並みの形式が計画され、実際に美しい町並みが計画的につくられた
1936 年 台湾全土において合計59 箇所の市・街・庄に市区改正計画が決定され、各地
    域で亭仔脚の形式が形成されていった
しかし、この市区改正計画の主要な事業として規定されていたのは道路の建設・整備と
下水道の完備である。→デザインの規定はなかった。

 


●自主的な町並み設備事業の例
・三峡街…藍染業が盛んだったが日本の統治下になって、炭鉱と木材事業を新事業とし た
1915 年 達脇良太郎は道幅の狭さ、建物の高さが不一致であること、排水溝などの下水    整備が整っていないことをみる
1916 年 総督府の市区改正計画とは別に、街区の建設・整備を実践し、街道沿いに亭仔    脚を伴う店屋が連なる町並みが建設されていった
市区改正計画では、街区の整備に伴い新たな道路を建設するのが一般的であり直線的な
道路となる。その道路が緩やかに湾曲していることから市区改正計画によるものではない。


・新化街…交通の要衝であり付近の農産物の交易の中心として栄えた地である
1920 年 牛車しか通行できない街路であった道を倍の幅に拡築する
    →市区改正計画としてではなく、街道の整備事業として実践された
1921 年 新たな道路の登場により、沿道に亭仔脚を持った洋風ファサードの店屋が自主
    的に建てられていく→林茂己(商店主)が3 階建ての店屋を建設したことによ    り、美観が評判となりこれを模範建築として、次々と洋風意匠の店屋が建てら    れた


この建設事業が市区改正計画によるものではないため、総督府から農会を通じて店屋一
軒当たり2000 円の無利息融資が実践された。

なぜ新化街では市区改正計画が策定されなかったのか。
1923 年8 月11 日 台湾日日新報では、市区改正は「従来幾回も試みられてきたが着手さ
れなかった」とされている
街や庄では、市区改正計画が策定されても事業実施が後送りにされることが一般的だっ
たとされているが、新化街では市区改正計画が策定されずにいたために、総督府からの直接の無利息融資の支援が受けられ、町並みが実現したということが言えそうである。

 

 

●市区改正事業の影響を受けての例

湖口街…台北から新竹まで鉄道が施設され、湖口に駅が設けられたことにより街区

    が形成
1916 年 三峡街と同じく地元行政により街区の改変が行われ、町屋の建設が進んだ
   ただし、ここでは市区改正事業と同様の整然とした街区形成が見て取れる。清の   時代から日本統治時代の1918 年ごろにかけて4 段階に街区が形成されていった

第一段階と第二段階で街の北東部の街区が形成され、この部分は既存の街路を拡張したものと考えられる。その後1916 年から1918 年に西方向へ新たに道が建設され、統一された店屋の街区が形成される。この整備は1913 年に隣接する新竹街で市区改正事業が決定・実施され、影響を受けたものであると判断できる。

 

 

●まとめ
市区改正計画によらないで亭仔脚の形式を基盤とする町並みが形成された例は3 例以外にもあるが、現在も「老街」として親しまれているものはこの3 例である。

3 例においては、街区の整備や道路の建設整備においてその整備の程度に差があることが認められているが、それは市区改正計画のような統一的な計画標準が存在しなかったためである。

3 例の共通していることは、濃密な洋風ファサードの意匠であり、このことは台
北に実現した亭仔脚の街並みデザインが制度や事業計画という枠組みを超えても広く波及していく要素であったことを示す事実であると言える。

 

●考察
市区改正計画など縛りのない自主的な店屋の建設や街区整備により、濃密な洋風ファサードの意匠がうまれ、美観が評判となり隣接する建物へと広まっていったと考える。しかし、湖口街は市区改正事業の影響を受け同じようなファサードが町並みとなっているが、統一されたファサードの美しさというのも、現在も老街として親しまれている理由なのではないかと考える。

 

 

 

■「台湾老街の形成と震災復興の関係に関する考察」       (著者:西川博美)

●始め
店屋が連続した歴史的な町並み(老街)が全島に普及していった過程についてそれが震災とどのような影響関係をもつものであったかを考察したものである。

特徴のある町並みの普及は、日本統治時代の「台湾家屋建築規則」に亭仔脚が義務付け
られたことを契機にすることが示されてきた。街路の整備が中心となるその事業におい
て、義務付けられた亭仔脚を持つ町並みが次々と形成されていった。
一方で、地震災害に苦しんできた台湾においてはその対策が市街地の建築を変えていっ
た。市区改正事業が進んだ明治後半期から昭和期にかけては甚大な被害をもたらした震災が立て続けに起こる。市区改正事業において、その被害に対する対応としての側面はどのようであったのであろうか。

 

 

●亭仔脚普及の契機としての災害
1904 年11 月1906 年3.4 月 三度にわたり発生した嘉義地方大地震 嘉義街 斗六街
1906 年 嘉義街で市区改正計画が決定される
   →この計画決定は震災前からの調査に基づくもので、震災復興に対応するもので    はなかったと考えられる。被災半年後の新聞では、市区改正の着手にあたり
    940 戸の撤退が命じられたり、土地の値上がりなど市区改正による混乱が生じ    ていることも報じている。
1913 年 市区改正事業が実施され、主要街路が建設された
1924 年 震災から18 年後に斗六街でも市区改正計画が決定される
   →新聞では、「応急修理において嘉義街では土角や茅葺(かやぶき)を禁じてい
    るが斗六街の方針は、一刻も早く生業に就くことを必要とする。壊れた部分は
    何でもよいから応急修理を加えて雨露を防ぐように示す。」と報じている。


土角とは、地震に弱い日干し煉瓦であり、それまでの台湾における店屋も含む伝統的家
屋に一般的に使われていたものである。

「斗六地方はもとより木材を得る道もなく煉瓦ももまた多数の需要に供給するほど多く産出せずよほどの金持ちも皆土角で大家屋を造る」ため、土角で造るケースが多くみられたといえる。

このことは、「台湾家屋建築規則」などに基づく市区改正事業が進められなかったために起こった現象である。

その後、市区改正計画を求める声は強くなる。


1919 年 市区改正のための調査がはじまる
1924 年 計画決定された→着実に事業が進み、土角の店屋は一掃され台湾の老街を代表           する煉瓦を主体とする壮麗な町並みが完成することとなる

この2 つの例は、震災の復旧事業と市区改正事業が同時に進められた場合と、復旧事業
の中で市区改正事業が求められた場合と理解することができる。市区改正事業が進んだ時期に震災被害を受けた台湾では、市区改正事業がその震災の復旧事業と様々な形で進められるものとなったケースが多い。

 


●家屋建築規則による対応
1907 年 「台湾家屋建築規則施行細則」で構造において第5 条において「家屋は石、煉
    瓦、人造石、金属、木材を用いて構造する」として、土角は禁止された
   →地方⾧官による規定は、亭仔脚の幅員だけ決めて構造は第5 条の中から自由に    選べるとしたケースが多く、詳細な規制を設けない場合が多い

しかし、地方によっては積極的に詳細な規制を設ける場合もあった。その典型が嘉義地方大地震の被害地となった台南州である。

1928 年 「台南州令第6 号」で「台湾家屋建築規則」第4 条の細則として詳細な規制が     示された
   →亭仔脚の幅員が台南市嘉義街、斗六街でそれぞれ個別に規定され、歩道の
    塗装方法や亭仔脚の柱径、⾧さの制限まで規制されている

1929 年 「台南州令第7 号」で末広町台南市の中心街)街路に限定した標準が示され    る
   →その中で「建物は石煉瓦、コンクリート鉄筋、鉄骨コンクリート等の構造と     し、屋根勾配は26°以上とする」と規定された

1931 年 「台南州令第7 号」の規定に従って建設された⾧大な連続する末広町の亭仔脚
   →模範的な町並み建設として意義を持っていた

台南州における「台湾家屋建築規則」第4 条の細則の規定では、大規模な震災を契機として亭仔脚の町並みがしだいに詳細になっていく様子がわかる。

 

 

●まとめ
「台湾家屋建築規則」で亭仔脚の設置が義務付けられたのは、元々は台湾の強い日光やスコールを避け衛生を保つという機能に着目し広く普及させようとしていたが、震災被害を契機として地方が規定する亭仔脚の詳細について、しだいに耐震的な規定が加えられていったと考えられる。
老街とされる台湾の歴史的町並みは、同じように亭仔脚を基盤としながらその構造や意
匠が地方ごとに異なるという特徴を持っている。                 その背景として、亭仔脚を義務付けた「台湾家屋建築規則」の規定が、その詳細を地方に任せたことを指摘した。                           明確な差異が生じるためにはその規定がより厳密である必要がある。その厳密化の契機となったのが震
災被害を受けた対応であったと考えられる。