こんにちは。
12月18日(金)は、台湾ゼミを行いました。
現在台湾ゼミでは論文のレビューを行っていますが、書籍から読み取っていくことをはじめました。各文献から建物の設計者や建設年、構造などを調べていきます。
・参考文献
「台北・歴史建築探訪ー日本が遺した建築遺産を歩く」
こんにちは。
12月18日(金)は、台湾ゼミを行いました。
現在台湾ゼミでは論文のレビューを行っていますが、書籍から読み取っていくことをはじめました。各文献から建物の設計者や建設年、構造などを調べていきます。
・参考文献
「台北・歴史建築探訪ー日本が遺した建築遺産を歩く」
こんにちは。12月14日(月)は環境ゼミを行いました。
えんつりー4階部分の気流解析を解析範囲を変えて検証を行いました。
えんつりーのみでの解析と、周辺地形を含めた解析、そして、周辺地形と周辺建物の両方を含めた解析の3種類を行いました。
担当者(鈴木葉大、鈴木結梨)
室内の気流が見たい場合でも屋根上の気流が表示されてしまうことが今回改善しなければならない点として挙げられました。
日本建築学会
こんにちは。
12月11日 (金)は台湾ゼミを行いました。
今回は、
「台湾における市区改正計画によらない軒下歩道(亭仔脚)の街並み形成について」
(著者:西川博美)
「台湾老街の形成と震災復興の関係に関する考察」 (著者:西川博美)
上記の2つの論文のレビューを行いました。
以下はレジュメになります。
担当者(鈴木結梨)
■「台湾における市区改正計画によらない軒下歩道(亭仔脚)の街並み形成について」
(著者:西川博美)
●始め
亭仔脚を基盤とする店屋が連続した歴史的な町並みの建設は、日本統治時代の建築制度
である1900 年に公布された「台湾家屋建築規則」によって軒下の歩道の設置が義務付けられ普及した。(『中国人の街づくり』p107~123)老街が観光資源にもなっている最大の要因は、その濃密ともいえる独特なファサードデザインにあるとも考えられる。
しかし、建築規則においても市区改正事業計画においてもファサードデザインの規定は
なかった。なぜこうした特徴のあるファサードデザインが波及していったのか。そのことを明らかにするために自主的に亭仔脚の町並みを形成していった地区に着目し、経緯を整理する。
●市区改正事業としての街並みの形成
亭仔脚の街並みの原点→台北市における市区改正工事
1913 年 大風水害の被害を契機に大掛かりな家屋改築計画が始められる
個々の店屋建築のすべてを総督府が設計しており、その際に亭仔脚による町
並みの形式が計画され、実際に美しい町並みが計画的につくられた
1936 年 台湾全土において合計59 箇所の市・街・庄に市区改正計画が決定され、各地
域で亭仔脚の形式が形成されていった
しかし、この市区改正計画の主要な事業として規定されていたのは道路の建設・整備と
下水道の完備である。→デザインの規定はなかった。
●自主的な町並み設備事業の例
・三峡街…藍染業が盛んだったが日本の統治下になって、炭鉱と木材事業を新事業とし た
1915 年 達脇良太郎は道幅の狭さ、建物の高さが不一致であること、排水溝などの下水 整備が整っていないことをみる
1916 年 総督府の市区改正計画とは別に、街区の建設・整備を実践し、街道沿いに亭仔 脚を伴う店屋が連なる町並みが建設されていった
市区改正計画では、街区の整備に伴い新たな道路を建設するのが一般的であり直線的な
道路となる。その道路が緩やかに湾曲していることから市区改正計画によるものではない。
・新化街…交通の要衝であり付近の農産物の交易の中心として栄えた地である
1920 年 牛車しか通行できない街路であった道を倍の幅に拡築する
→市区改正計画としてではなく、街道の整備事業として実践された
1921 年 新たな道路の登場により、沿道に亭仔脚を持った洋風ファサードの店屋が自主
的に建てられていく→林茂己(商店主)が3 階建ての店屋を建設したことによ り、美観が評判となりこれを模範建築として、次々と洋風意匠の店屋が建てら れた
この建設事業が市区改正計画によるものではないため、総督府から農会を通じて店屋一
軒当たり2000 円の無利息融資が実践された。
なぜ新化街では市区改正計画が策定されなかったのか。
1923 年8 月11 日 台湾日日新報では、市区改正は「従来幾回も試みられてきたが着手さ
れなかった」とされている
街や庄では、市区改正計画が策定されても事業実施が後送りにされることが一般的だっ
たとされているが、新化街では市区改正計画が策定されずにいたために、総督府からの直接の無利息融資の支援が受けられ、町並みが実現したということが言えそうである。
●市区改正事業の影響を受けての例
湖口街…台北から新竹まで鉄道が施設され、湖口に駅が設けられたことにより街区
が形成
1916 年 三峡街と同じく地元行政により街区の改変が行われ、町屋の建設が進んだ
ただし、ここでは市区改正事業と同様の整然とした街区形成が見て取れる。清の 時代から日本統治時代の1918 年ごろにかけて4 段階に街区が形成されていった
第一段階と第二段階で街の北東部の街区が形成され、この部分は既存の街路を拡張したものと考えられる。その後1916 年から1918 年に西方向へ新たに道が建設され、統一された店屋の街区が形成される。この整備は1913 年に隣接する新竹街で市区改正事業が決定・実施され、影響を受けたものであると判断できる。
●まとめ
市区改正計画によらないで亭仔脚の形式を基盤とする町並みが形成された例は3 例以外にもあるが、現在も「老街」として親しまれているものはこの3 例である。
3 例においては、街区の整備や道路の建設整備においてその整備の程度に差があることが認められているが、それは市区改正計画のような統一的な計画標準が存在しなかったためである。
3 例の共通していることは、濃密な洋風ファサードの意匠であり、このことは台
北に実現した亭仔脚の街並みデザインが制度や事業計画という枠組みを超えても広く波及していく要素であったことを示す事実であると言える。
●考察
市区改正計画など縛りのない自主的な店屋の建設や街区整備により、濃密な洋風ファサードの意匠がうまれ、美観が評判となり隣接する建物へと広まっていったと考える。しかし、湖口街は市区改正事業の影響を受け同じようなファサードが町並みとなっているが、統一されたファサードの美しさというのも、現在も老街として親しまれている理由なのではないかと考える。
■「台湾老街の形成と震災復興の関係に関する考察」 (著者:西川博美)
●始め
店屋が連続した歴史的な町並み(老街)が全島に普及していった過程についてそれが震災とどのような影響関係をもつものであったかを考察したものである。
特徴のある町並みの普及は、日本統治時代の「台湾家屋建築規則」に亭仔脚が義務付け
られたことを契機にすることが示されてきた。街路の整備が中心となるその事業におい
て、義務付けられた亭仔脚を持つ町並みが次々と形成されていった。
一方で、地震災害に苦しんできた台湾においてはその対策が市街地の建築を変えていっ
た。市区改正事業が進んだ明治後半期から昭和期にかけては甚大な被害をもたらした震災が立て続けに起こる。市区改正事業において、その被害に対する対応としての側面はどのようであったのであろうか。
●亭仔脚普及の契機としての災害
1904 年11 月1906 年3.4 月 三度にわたり発生した嘉義地方大地震 嘉義街 斗六街
1906 年 嘉義街で市区改正計画が決定される
→この計画決定は震災前からの調査に基づくもので、震災復興に対応するもので はなかったと考えられる。被災半年後の新聞では、市区改正の着手にあたり
940 戸の撤退が命じられたり、土地の値上がりなど市区改正による混乱が生じ ていることも報じている。
1913 年 市区改正事業が実施され、主要街路が建設された
1924 年 震災から18 年後に斗六街でも市区改正計画が決定される
→新聞では、「応急修理において嘉義街では土角や茅葺(かやぶき)を禁じてい
るが斗六街の方針は、一刻も早く生業に就くことを必要とする。壊れた部分は
何でもよいから応急修理を加えて雨露を防ぐように示す。」と報じている。
土角とは、地震に弱い日干し煉瓦であり、それまでの台湾における店屋も含む伝統的家
屋に一般的に使われていたものである。
「斗六地方はもとより木材を得る道もなく煉瓦ももまた多数の需要に供給するほど多く産出せずよほどの金持ちも皆土角で大家屋を造る」ため、土角で造るケースが多くみられたといえる。
このことは、「台湾家屋建築規則」などに基づく市区改正事業が進められなかったために起こった現象である。
その後、市区改正計画を求める声は強くなる。
1919 年 市区改正のための調査がはじまる
1924 年 計画決定された→着実に事業が進み、土角の店屋は一掃され台湾の老街を代表 する煉瓦を主体とする壮麗な町並みが完成することとなる
この2 つの例は、震災の復旧事業と市区改正事業が同時に進められた場合と、復旧事業
の中で市区改正事業が求められた場合と理解することができる。市区改正事業が進んだ時期に震災被害を受けた台湾では、市区改正事業がその震災の復旧事業と様々な形で進められるものとなったケースが多い。
●家屋建築規則による対応
1907 年 「台湾家屋建築規則施行細則」で構造において第5 条において「家屋は石、煉
瓦、人造石、金属、木材を用いて構造する」として、土角は禁止された
→地方⾧官による規定は、亭仔脚の幅員だけ決めて構造は第5 条の中から自由に 選べるとしたケースが多く、詳細な規制を設けない場合が多い
しかし、地方によっては積極的に詳細な規制を設ける場合もあった。その典型が嘉義地方大地震の被害地となった台南州である。
1928 年 「台南州令第6 号」で「台湾家屋建築規則」第4 条の細則として詳細な規制が 示された
→亭仔脚の幅員が台南市、嘉義街、斗六街でそれぞれ個別に規定され、歩道の
塗装方法や亭仔脚の柱径、⾧さの制限まで規制されている
1929 年 「台南州令第7 号」で末広町(台南市の中心街)街路に限定した標準が示され る
→その中で「建物は石煉瓦、コンクリート鉄筋、鉄骨コンクリート等の構造と し、屋根勾配は26°以上とする」と規定された
1931 年 「台南州令第7 号」の規定に従って建設された⾧大な連続する末広町の亭仔脚
→模範的な町並み建設として意義を持っていた
台南州における「台湾家屋建築規則」第4 条の細則の規定では、大規模な震災を契機として亭仔脚の町並みがしだいに詳細になっていく様子がわかる。
●まとめ
「台湾家屋建築規則」で亭仔脚の設置が義務付けられたのは、元々は台湾の強い日光やスコールを避け衛生を保つという機能に着目し広く普及させようとしていたが、震災被害を契機として地方が規定する亭仔脚の詳細について、しだいに耐震的な規定が加えられていったと考えられる。
老街とされる台湾の歴史的町並みは、同じように亭仔脚を基盤としながらその構造や意
匠が地方ごとに異なるという特徴を持っている。 その背景として、亭仔脚を義務付けた「台湾家屋建築規則」の規定が、その詳細を地方に任せたことを指摘した。 明確な差異が生じるためにはその規定がより厳密である必要がある。その厳密化の契機となったのが震
災被害を受けた対応であったと考えられる。
こんばんは。12月8日(火)は環境ゼミを行いました。
今日は前週に引き続き、本学建築棟”えんつりー”の4階部分の環境シミュレーションのための3Dモデルの作成を行いました。下記の写真が、完成したモデルになります。
建物3Dモデル担当者(鈴木葉大、鈴木結梨)
また、cadmapper で書きだした地形モデル上にある建物の高さを実際の高さに合わせる作業を行いました。
敷地3Dモデル担当者(廣岡歩)
次回の環境ゼミでは、
4階部分の窓の形を変えた3Dモデルを3つ用意し、
窓の形別のシミュレーションを行うことで各モデルの特徴を整理していきます。
※シミュレーションにはRhinocerosやFlowDesigner、DIVA for Rhinoなどを用います。
こんにちは。
12月4日(金)のゼミは前週に引き続き、亭仔脚に関する既往研究のレビューを行いました。
今回取り上げたのは2014年6月に「日本建築学会計画系論文集 第79巻 第700号」で発表された
「日本統治期の台湾の地方小都市における亭仔脚の町並みの普及」
(著者:西川博美、中川理)
です。
以下はレジュメになります。
(担当者:廣岡歩)
○導入
・保存事業は歴史的建築の保存よりも魅力ある老街の町並みを活用するまちづくり事業として展開した。
・亭仔脚を用いた店屋建築の普及は、日本統治時代の建築制度である「台湾家屋建築規則」により設置が義務づけられ普及したことが明らかにされている。
・どのように亭仔脚の町並みが作られたのかについてはほとんど明らかになっていないため、老街として親しまれる台湾の特徴的な建築文化の成立を明らかにすることが優先。
○市区改正事業の全島への波及
・「台湾家屋建築規則」 理由:台湾の強い日差しや雨を防ぐ実用的な目的だった。
・亭仔脚は機能を満たすだけではなく、独自の装飾を施すものとして広く普及していった。
・亭仔脚を含む店屋建築を建設、改築することは、個々の商店主が個別に行う建設行為であるため、商店主は自由に意匠をほどこすことができた。
・店屋の建設・改築の費用は市区改正事業費に含まれていないが、それでも亭仔脚を設置することは市区改正の目標とされていた。
○亭仔脚店屋ファサードの変化
・台北での市区改正工事は、個々の店屋建築のすべてを総督府が設計したことで亭仔脚を設置した統一された洋風の意匠を飾るファサード型式が確立することになった。
・台北中心街での場合と同様に、鉄筋コンクリートが積極的に使われ、煉瓦の赤ではなく白を基調とする装飾の少ないデザインが主流となった
・地理学者の冨田芳郎が1940年代に行った3類型の分類「明治型」「大正型」「昭和型」を取り上げた。
○市区改正と町並みの形成
・冨田が見いだした店屋ファサードは現在老街としても認識されていない。つまりこれらの街では市区改正計画の決定がなされないままで、市区改正ではない街路の新設・拡築により「大正型」の店屋ファサードが形成され、それが1941年以降、戦後に改築されてしまったことがうかがえる。
・台湾での全島に広げられた市区改正計画とは、道路の新設・拡築と下水の設置にほぼ限られ、台南における統一した店屋建築のように、鉄筋コンクリート造で集合的なファサードの形状が生まれることになったと考えられる。
・「大正型」から「昭和型」へ変化した頃に市区改正の計画も局所的な工事計画から全体計画を持った都市計画に変更され、それにより店屋のファサードも鉄筋コンクリート造の統一的・集合的なものへと変化していったと考えられる。
○店屋ファサードの町並み形成の実際
<大溪街の形成>
・集合的な建物の建設はなく、それぞれの商店主により亭仔脚を持つ煉瓦造の店屋ファサードが個別に順次建設が進んだ。
・主要街路沿いだけでなく広範囲の街路拡築・店屋改築の計画が立てられ事業が継続的に実施されていた
・市区計画により最初に主要街路の拡築とそれ沿いの町並みが一挙に作られ、その後18年ほどかけて、街区全体での道路拡築・店屋改築が進んでいった。
<新化街の形成>
・新化街の市区改正だけが、最終的に計画決定されないまま中正路の拡築が実施された
・東側の店屋改築も、市区改正事業として行われたものではない。
・総督府から地元の農会を通じて店屋一軒あたり2000円の無利息融資が実施されたという事実があった
・台北市以外の市区改正が市・街・庄による施行になったため、もともと財政事情が弱体な街や庄では、事業実施後送りにされるようになったと指摘している
・商店主の自主的で個別的な店屋改築から始まり、通りの片側を中心に洋風ファサードを持つ町並みが形成され、その後に実施された街路整備により通りに対面する側に同様の町並みが作られていった。
<斗六街の形成>
・市区改正事業の実施をめぐり多くの協議が行われていて大規模な震災により、市区改正やそれにともなう店屋の改築が実施されるというケースが多い。
・斗六街では「事故破れたる部分は何でも良いから応急の修理を加へて雨露を凌ぐ様にすべしと訓示」が行われただけ。
・街の中央通りである太平路の市場の東側の店舗十数軒が先行して建設され、「これを模範建築とし」、「次々と継続して建設」が進んでいった
○建築組合の役割
・台北市以外の市区改正は、国ではなくそれぞれの市・街・庄による施行のために、もともと財政事情が弱体な街や庄では、個々の店屋の改築のための資金支援はまったくできない状況であり、それぞれの計画地区で店屋改築の資金斡旋を進めようとして設立されていったのが建築組合であったと考えられる
・市区改正事業による亭仔脚を持つ店屋への改築のための資金は商店主が出費しなければならないが、店屋によってはその資金を調達することが困難な場合も多かったが、街路沿いに亭仔脚を貫く形で連続した店屋を作るために、すべての店屋が同時に改築を実施することが求められ、そのため、店屋改築の資金調達の仕組みが地区の中に自主的にできたと考えられる。
○結論
・初期の市区改正計画は、街・庄の全体におよぶ総合的な計画性は希薄であり、特定の街路を新設・拡張するといった局所的な事業に限られていた。
・店屋の改築が何らかの行政的な計画・支援を受けることで初めて保存される価値を持つ町並みとして成立できるようになった。