wakisaka lab@Shizuoka Institute of Science and Technology

静岡理工科大学 建築学科 脇坂圭一研究室

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20201204 既往研究のレビュー 【防災建築街区ゼミ】

こんにちは。

12月4日(金)のゼミは前週に引き続き、亭仔脚に関する既往研究のレビューを行いました。

 

今回取り上げたのは2014年6月に「日本建築学会計画系論文集 第79巻 第700号」で発表された

  「日本統治期の台湾の地方小都市における亭仔脚の町並みの普及」

                           (著者:西川博美、中川理)

                                    です。

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20201204 台湾ゼミ

 

以下はレジュメになります。

(担当者:廣岡歩)

○導入

 ・保存事業は歴史的建築の保存よりも魅力ある老街の町並みを活用するまちづくり事業として展開した。

 ・亭仔脚を用いた店屋建築の普及は、日本統治時代の建築制度である「台湾家屋建築規則」により設置が義務づけられ普及したことが明らかにされている。

 ・どのように亭仔脚の町並みが作られたのかについてはほとんど明らかになっていないため、老街として親しまれる台湾の特徴的な建築文化の成立を明らかにすることが優先。

 

 

○市区改正事業の全島への波及

 ・「台湾家屋建築規則」 理由:台湾の強い日差しや雨を防ぐ実用的な目的だった。

 ・亭仔脚は機能を満たすだけではなく、独自の装飾を施すものとして広く普及していった。

 ・亭仔脚を含む店屋建築を建設、改築することは、個々の商店主が個別に行う建設行為であるため、商店主は自由に意匠をほどこすことができた。

 ・店屋の建設・改築の費用は市区改正事業費に含まれていないが、それでも亭仔脚を設置することは市区改正の目標とされていた。

 

 

○亭仔脚店屋ファサードの変化

 ・台北での市区改正工事は、個々の店屋建築のすべてを総督府が設計したことで亭仔脚を設置した統一された洋風の意匠を飾るファサード型式が確立することになった。

 ・台北中心街での場合と同様に、鉄筋コンクリートが積極的に使われ、煉瓦の赤ではなく白を基調とする装飾の少ないデザインが主流となった

 ・地理学者の冨田芳郎が1940年代に行った3類型の分類「明治型」「大正型」「昭和型」を取り上げた。

 

○市区改正と町並みの形成

・冨田が見いだした店屋ファサード現在老街としても認識されていない。つまりこれらの街では市区改正計画の決定がなされないままで、市区改正ではない街路の新設・拡築により「大正型」の店屋ファサードが形成され、それが1941年以降、戦後に改築されてしまったことがうかがえる。

・台湾での全島に広げられた市区改正計画とは、道路の新設・拡築と下水の設置にほぼ限られ、台南における統一した店屋建築のように、鉄筋コンクリート造で集合的なファサードの形状が生まれることになったと考えられる。

・「大正型」から「昭和型」へ変化した頃に市区改正の計画も局所的な工事計画から全体計画を持った都市計画に変更され、それにより店屋のファサードも鉄筋コンクリート造の統一的・集合的なものへと変化していったと考えられる。

 

 

○店屋ファサードの町並み形成の実際

 <大溪街の形成>

  ・集合的な建物の建設はなく、それぞれの商店主により亭仔脚を持つ煉瓦造の店屋ファサードが個別に順次建設が進んだ。

  ・主要街路沿いだけでなく広範囲の街路拡築・店屋改築の計画が立てられ事業が継続的に実施されていた

  ・市区計画により最初に主要街路の拡築とそれ沿いの町並みが一挙に作られ、その後18年ほどかけて、街区全体での道路拡築・店屋改築が進んでいった。

 

 <新化街の形成>

  ・新化街の市区改正だけが、最終的に計画決定されないまま中正路の拡築が実施された

  ・東側の店屋改築も、市区改正事業として行われたものではない。

総督府から地元の農会を通じて店屋一軒あたり2000円の無利息融資が実施されたという事実があった

  ・台北市以外の市区改正が市・街・庄による施行になったため、もともと財政事情が弱体な街や庄では、事業実施後送りにされるようになったと指摘している

  ・商店主の自主的で個別的な店屋改築から始まり、通りの片側を中心に洋風ファサードを持つ町並みが形成され、その後に実施された街路整備により通りに対面する側に同様の町並みが作られていった。

 <斗六街の形成>

  ・市区改正事業の実施をめぐり多くの協議が行われていて大規模な震災により、市区改正やそれにともなう店屋の改築が実施されるというケースが多い。

  ・斗六街では「事故破れたる部分は何でも良いから応急の修理を加へて雨露を凌ぐ様にすべしと訓示」が行われただけ。

  ・街の中央通りである太平路の市場の東側の店舗十数軒が先行して建設され、「これを模範建築とし」、「次々と継続して建設」が進んでいった

 

○建築組合の役割

台北市以外の市区改正は、国ではなくそれぞれの市・街・庄による施行のために、もともと財政事情が弱体な街や庄では、個々の店屋の改築のための資金支援はまったくできない状況であり、それぞれの計画地区で店屋改築の資金斡旋を進めようとして設立されていったのが建築組合であったと考えられる

・市区改正事業による亭仔脚を持つ店屋への改築のための資金は商店主が出費しなければならないが、店屋によってはその資金を調達することが困難な場合も多かったが、街路沿いに亭仔脚を貫く形で連続した店屋を作るために、すべての店屋が同時に改築を実施することが求められ、そのため、店屋改築の資金調達の仕組みが地区の中に自主的にできたと考えられる。

 

○結論

 ・初期の市区改正計画は、街・庄の全体におよぶ総合的な計画性は希薄であり、特定の街路を新設・拡張するといった局所的な事業に限られていた。

 ・店屋の改築が何らかの行政的な計画・支援を受けることで初めて保存される価値を持つ町並みとして成立できるようになった。